昭和45年11月13日 朝の御理解


 御理解 第99節
 「無学で人が助けられぬという事はない。学問はあっても真がなければ、人は助からぬ。学問が身を食ううということがある。学問があっても難儀をしておる者がある。此方は無学でも、みなおかげを受けておる。」

 此方は無学でも皆おかげ受けておる。此方は何も分からないけれど、自分自身が助かっておるという事になるのじゃないでしょうかねえ。自分自身が所謂誤魔化しの無い行き方というか、真実助かっておる。もう私はおかげを頂いております、もう日本一の幸せ者でございますと、例えば口に言う人は沢山おります。けれども真実その人の心の底を割ってみますと、はしてほんとに自分は日本一の幸福者だと思って居るだろうかと。
 それは真実ではない。口に真を語りつつ心に真が無い。もうですから、言葉に出しておることと、自分の心に思うておることとのそこに一致点というもの、そこのところに、はぁ自分はまだ助かっていないなと、自分は助かっておるなという様な事が分かるのじゃないかとこう思います。ほんとに自分が助かるということは、結局自分の心の中の真実と言うですかね、真というものをほんとに追求して行かなければならない。
 自分の心が、まあ時々ではあるけれども真になることがある。真実になる、考え方とでももうしましょうかね、思い方になる時がある。そこにはもう、だからその合わせ鏡のように真実の姿が、自分の周囲周辺に見ることが出来る。確かに合わせ鏡である。もうほんとに恐ろしい様に合わせ鏡である。それは鏡の前に立って自分の姿を見る。それはそのまま自分の姿が鏡に写っておるのである。これが真実。
 してみると、そこに不平不足とか、痛いとか痒いとかと言った様な姿がそこにあるとするならば、それはまだ自分がその程度の自分であると言う事。ですからもっとほんとの真を追求して行かなければならない。所謂真のおかげ真のおかげと。子供がま何時も親子の例を持って申しますが、ほんとに勿体ない様に子供が自分の心に添うてくれる。そんならその時こそ、ああたの心が神様の心に添うておる時なのだと。ね、
 いうなら満ち足りた様々の人間が、幸福になって行かなければならない為の条件が一つ一つ揃うて行きよるとするなら、あなたの真実がいよいよほんとのものになって行きよる証拠だ。まあ、そこまで行くためにはま大変な事だと思いますね。「めでためでたの若松様よ。枝も栄える葉も茂るというではないか。金光大神は子孫繁盛、家繁盛の道を教えるのじゃ」と御理解百節にあります様に、そういう心からめでたいと思えれる生活、心から有難いと思えれる生活。
 しかもそれが子供にも孫にも伝わって行く、又行っておる事実が確認されてのおかげをそこにみるという時です。私共は真の道に出らせて頂いて、真の道を歩いておるんだなと思わせて頂ける。昔からおかげは合わせ鏡という様な事を言われますが、ほんとにもう鏡がもう確かに自分の姿をそのままに写し出してくれる。だからもう信心はそこに焦点を置いてですね、私は真の追求して行く以外にはないと。
 真がなからなければ人は助からん。自分の家内やら子供やら先ずほんとに助かって行って居るだろうか。その為にはやはり自分自身が真のあり方になって、真の助かりになって行かなければならない。真と云うのは、もう本当言うたら言葉には出せない程しのものだと思うね。言葉に出しよると、もうそれがもう少しばかり狂うてくる。ね、いや少しばかりじゃない、段々狂うてくる。
 そこで真というものは、ずっと自分の心の中に頂き、いうならその真の心を温める様な思いで心の中に頂いて行くものだ。その真は形の上に必ず真のことが、そこに真のことが真のおかげが現れて来る。だからまた有難いと思う。だからその真をまたいよいよ温めて行く。もう言葉には出されない程しのもの、真とは。十一日の朝の御祈念を終わらせて頂いて、お取次をされる中に、善導寺の原さんがお届けをされる。
 まあ、皆さん御承知のように、ああして一家を挙げて熱心な信心をなさる。長男の昌一郎さんが嫁さんを貰ってもう三年にもなりますか、嫁は信心のない所から来ておりますから信心が分かる筈がありません。いや、むしろ信心のある家庭に入って来て、信心ちゃそげに毎日毎日神様に参ったりお供えしたりせんならんもんじゃろうかと、かえって不思議に思う位な中に嫁いで来た。
 おかげを頂いて二人の中に子供が次々と満一歳と満二歳ですから、ま、歳子ですかねえ、二つと、先日下の子が満一歳の誕生のおかげを頂いた。ほんとにそのおかげを頂いておるなと思う。だからそのおかげを頂いておるなと思うことを、いわば嫁さんにお話をするというよりも、ま、よくよく言うと嫁さんにおかげを頂いておるということを強制する。ちょっと考えてみてんなさい、おかげを頂いとるよ。
 二人の子供がすくすくとこうやって病気一つせずにおかげを頂いて、世界にはどれ程しの目が見えない、生まれながらに耳が聞こえないとまあ、いうなら不具者的な方、人達も沢山ある中に内の子供達や孫達は二人ながらこうやって立派にお育てを頂いて、ほんとに何不自由の無いおかげを頂いて、ほんとどんなに考えても有難いことよというて嫁さんにお話をする。ほんとですねとこう。
 だからそこにそれだけのお話をさせて頂いて、嫁ごもほんとですねと言うておるなら、もちっと増しなおかげを受けられなきゃならい。おかげをおかげと実感しておるとするなら。原さんがおかげと思うて居られることは決して嘘ではない。けれども本当ではない。だからそれが本当なものか、本当なものでないかを自分の心の中にずっと温めておかなければいけん。それで私が申しました。
 「ほんとに孫達がその様にしておかげを受けておると云うことを有難いなあと思うならばね、それを口に出したらもうそれだけまたそれだけ薄うなるよ」ち、有難いものが。だからその有難いと思うておるけれども本当のこと云うたらまだ有難いと思ってない。この有難いのを嫁御にもその分からせたい、嫁御も有難いと思わせたい、というところにです、まだほんとの有難いものではない。
 自分が有り難いと思うたら、有り難いと思うそれを有り難いなあと思うて、ね、自分の姿、自分の形の上に現していく。有り難いなあと思うて嫁御と差向いで、いうなら仕事しとるならもうそれでいい。有り難いなあと思うその心で、お炊事場の御用さして貰えばそれでいい。それが例えば嫁御に伝わった時こそが、本当の有り難いものだと思う。いわゆる合わせ鏡である。
 成程なあ私が有り難いと思うておりゃ、心から有り難いと思うておりゃあ、嫁御もやっぱり有り難いと思う。有難かじゃないの、どんなに考えてもありがたかろうと、いいやいっちょん有難かないとは言いやせん。ほんなことですのと言うけれどもほんとのものではない。だから、真と云うものは、そのもう言葉に出した時には、もう真を欠いておる。お届けをして、ほんとにおかげを受けておることを嫁御と二人で或意味では喜び合わせて頂いた事をお届けされましたから、私がそれを申しました。
 「原さん、あんたがそれだけ有難いと思うならね、その思いをじっと自分の心の中で頂いて、嫁御に言うたら駄目」ち。ほんとの有難かが消える。いわばほんとの有難いのが消えると云う事はね、おかげが消えるのと同じ事だ。言うたら希薄な薄いものになってしまう。ね、そして自分が有難いなあと思うておるものが、そこに現れるところに次のおかげが現れて来るおかげでなからなければ、それはほんなもんじゃない。
ま、私は信心で云う有難いと云うもののいわば真実の有難さと言うものをです、ほんとに有難かと言うものが自分自身が有難いものであって、ね、それが溢れて出るようなものが人に与えられる。それが言うて居ること、行うて居ることの中にです、ね、それに分からせようではなくて、分かっていく、伝わって行くようなもんでなからなければならない。もうこれからそげな有難いの強要やら、その分からせようとうような、そういう事を言うちゃいかんですよと言うて、まあ、話したことです。
 私共は、どうもこの有難いというのをですね、私もそうですけれどもどんなに考えても信心ちゃ有難かねち。確かに有難いと思うておるけれどもですね、はしてその信心ちゃ有難いなと思っておるその有難いと思っておる真実の心というのを、もう一辺それを口に出す前にも少し温めてからのもの、そして有難いねと私が言うておるものを相手も感じておるものでなからなきゃならない。
 私は家内なら家内に有難いねと、だからこれはもう家内に言うのではなくて、自分の一人語でなからにゃいけん。相手に言うものじゃない。ならそれは自分が有難いと思うておるのは、もう合わせ鏡の様に、家内に写っていく。それは合わせ鏡の様に、自分の子供に映じていく。合わせ鏡のように、形に現れて来るおかげになって現れて来る。それが私しゃ、ほんとの真の、無学でも、この方は皆おかげを受けておると仰るのは、そういう真が、まあ、充実して居られたお方だ、教祖の神様と云うお方は。
 昨日の朝、原さんがお参りして見えて、ほんとに昨日はもう親先生でなからなければあんな事を教えて下さらない。ほんとに有難いことを教えて頂いたと、ほんとにこれからは有難いの強要をするまい、強制をするまい、自分自身が有難うさえなっていきゃよかったったいとしんから思うて帰らせて頂きましたら、先生、それこそ不思議なことが起こったというこういうわけ。
 やはり、ね、あの仕立屋さんですから嫁さんと二人でお仕事をされておったら、もうそれこそ嫁入って来て初めて嫁の方から、お母さん有り難いですねと言うて来た。ねえ、見てご覧、ああたが有難いねと言うたら、ほんなことですねと言うた時にはそれは向こうは口では言いよるばってん、ほんなもんじゃあなかった。ところが今日嫁御が言うその有難いものこそが、あなたの有難いなと心に思うた有難いが反映したと。
 昨夜お月次祭にお参りさして頂いて、二人の子供を連れて参りました。もう行きがけもこまごとばっかり言うちから、もうこりゃほんとお祭りに邪魔になりゃせんだろうかと思うて心配して、お参りさして頂いて、お広前に着かせて頂いたら、お祭りが始まった途端に二人の子供がおとなしゅうなった。そして二人がね、それこそみんなが手を合わせて神様を拝む姿を見て、母親が感動した。その感動を母親がお母さんに話した、訳なんです。ね、ほんに有難たかですねとこういう事だった。
 ですからね、私共の自分の周囲にです、不愉快だとかね、ね、嫌な思いをするとかね、ね、様々な事があります。そういう時には自分の心がそこにその様に写っておるんだということが真実なんです。ね、自分が有難い、自分がいわば菩薩様のごとある、観音様のごとあるなら自分の周囲がみんな菩薩様に見えて来るんだと。観音様に見えて来るんだと。ね、それが真実、なのに自分の周囲に根性の悪い人やら汚い人やら。
私は昨日恥ずかしい思いをしたことがあった。お風呂に入ろうとしよったら、?を掛けたままで、村内の方、指出、石浦の方達でしょうか、五、六人でその道路にこの頃から溝あげをしてから泥が上げてある。それを取ってくれと指出の方から言うて、ね。頼まれた。言うて来ちゃった。けども石浦の方の、あのほうの方がそのこの溝をあげて呉れと云われた時に泥を向こうが、ま、お百姓さんにとって泥もやっぱ大事なものらしいですね。肥料の効いた泥だそうですから。
 だから取れと言われとったから言うて来られとったけれどうちはそのままほうからかしとった。それを夕べも遅う私が風呂に入る頃ですから、その宵にかけて村内の者五、六人道をきれいにして泥を片付けよると、それけん寒いからお茶を沸かして呉れと、お茶を呉れと言うてお茶を貰に見えた。それで私の所にそのそげなふうに言うて来ました。そりゃあお茶と云うよりか、そりゃあのお酒の方がよかろう、ばってん、ちょいと汚い人達だなあと私しゃ言うたり思うたりし、まあいわばほんとにしたわけです。
 例えば夜誰も気が付かんとこで、まあそげんしよんなはるとなら、黙ってしなさりゃよかとに、お茶をわざわざ家にお茶を貰いに頼みもせん事をしてから、ね、お茶ていう事はお酒を貰いに来とんなさるとじゃから、お酒を上げなさいと私しゃまあ言うてですたい、今いうそれと同じ心が、やっぱり自分の心の中にもあるから、汚い人だなが先に出た訳ですよ。そりゃこの寒いとに御苦労さん、そらなら御神酒の癇どんつけて早よあがんなさいとどうして言える。
 そういう心が自分の心から生まれて来なかっただろうかというたらほんとに恥ずかしいと思うた。自分達だってそういう立場であってです、ならまあ、いうならまあ群衆心理というかね五人、六人集まるとどげな厚かましいことでん言うたりしたりすることが出来るのが人間なんだ。恐らく一人なら言うちゃぁ来なさらん。五人六人こりゃ金光様の出しらっしゃる、うちがしてあげよるけん、御神酒の一杯くらい頂いてよかくさ、お前行かんかちいう事じゃなかったじゃろうかと。
 恐らく、私がそういう立場だったら、私でもそういう風に事を、平気で言う私でなかろうかと、私は改めて反省させて頂いて、あの人が汚いのじゃない、こっちが汚いという事をです、ほんとに恥ずかしいなあと思うた。と、いうようにですね、私しゃ信心とはそういう風にして信心は真の道、真の信心というものを、進めて行くものだと私は思う。家内の姿を見なさい、子供の姿を見なさい、自分の周辺の人達の姿を見なさい。そこにいわゆる真実がある。ね、
 まあどうして汚い人達じゃあろうかというのは真実ではなくて、どうして汚い人達じゃろうかと思うた私の心の中にある汚いものが真実なのである。教祖の神様ならどうだろう。恐らく自分が、道の方へ降りて行って御自分も一緒になって泥片付けをなさったことであろう。その上はあ皆さん御苦労さんと言うてがんがんとした御神酒の一つも出せただろうとこう思う。そういう様に自分の真というかね。
 真実一路と言った様な言葉もあるが、そういう生き方をもって進めて行く人生を真実一路の人生だと言う事が言えるのじゃないだろうかと私は思う。真実の追求というのは矢張り追求である。もう絶対そこに会わせ鏡である。だからそれを実証するようにたまに自分の心に生まれた有難い真実がです、ね、成程自分が本当に有難いと思うておればです、それが嫁御にも伝わるという、自分の心を合わせた様な姿がそこに現れて居る。
 先ずだからこの体験をしなければいけない。ほんとに自分が有難い方へ少し向きを変えて有難いと思うたら、もう形の上で有難いものが現れて来る。昨日美登里会でした。で、善導寺のやっぱり久保山さんが発表しておられました。「先生、もう皆さんほんとに恥ずかしい事ですけれども、実はこうこうでした」と言うてお話になった。テレビで「花むしろ」かなんかというテレビ映画があっておる。それを毎日見るのが楽しみ。
 ところが丁度こちらへ出て来なければならない時間と一緒になった。久保山さんはこれだけはもう絶対、自分でも言われるが私も感心しておることは絶対時間を間違えられない事ですね。正確に守られることですね。お月次祭、お月次祭と云うたらもうちょっとそこにせめて十分前にも五分前でもお広前に着いとくとこう自分で決めておられる。もう見事に実行して行かれる方です。ところが昨日ばかりはそうじゃなかった。
 ああこれが見たいなと思う心と、今迄の行き方をですね、実行したいという心、二つが心を叩く。もう先生この位が私の信心ですと言うてまあお話になる。それこそそこに勇気を出してスイッチを切ってバス停留所に急いだら、丁度バス停留所に着いたら、その一緒に吉井行きのバスが来た。乗らせて頂いたら私の家内が、一時の御祈念に参って来よります、病院から。それと丁度一緒になった。と、
 云うところからもうそのバスの中で、又ここに降りてからのタイミングの素晴らしい事にもう驚くばかり。おかげを頂いて良かったとまあ思うたという話をして居られました。ですから、私共がね、今日私が申します、ほんとにその合わせ鏡のようにおかげが頂けれる、自分の心が少し神様へ本気で打ち向こうたら、神様がもう本気でこちらの方を向いて下さっておるという事実をです。
 そこに体験する為には、やはりそういうこれは、まあテレビぐらいのものですけれども、そういう厳しいものが、信心の中には求められます。真実を求めて行くということの上には。ね、こりゃもう他には何にも楽しみがありませんから、これだけは神様に許されてると思うて居りますと例えばいう、成程神様もふんそう一つぐらい、楽しみもなからにゃと仰るに違いない。
 けれどもなら氏子がです、それを捨ててからでも向かうて来りゃ喜んで居られる、その姿がすぐのタイミングという、素晴らしいおかげになって現れて居るとこを見るとです、如何に好きなものでもね、一省するだけの元気な心が必要かと言う事が分かります。是だけ御無礼してから是を見てから行こうと言いよったらですね、もうそれこそ昨日一日が、ね、何かそこに不愉快な嫌な事だけにしか合われなかったであろうけれども。
 一日がそういうそれからというものは、ずうっと有難いものが続いて、昨夜の御祈念に参ってきてからも又改めてその事をお届けして居られる。神様ちゃ間違いが無いという、ほんとに合わせ鏡の様なものだと、いうことをね、自分の心に有難いというものを温め続ける事が出来られた。だから、それにはそこにやはりそういうおかげを頂く為には、そういう修行が必要であることを、ね、
 云うなら昨夜の御理解じゃないですけれど、ね、我が心が神に向かうのを信心というのじゃと。ね、もちろんここでは、信心というのは真心ということ、ね、今日の御理解から申しますと。我が心が神に向かうて行くその心が真心なのだ。ね、いや向かうて進んで行く、少しづつでものその心が真心なんだ。そこには真の事が反映しておる。真の事がそこにきっと現れておる。真実を追求して行くということはそういう事。ね。
真を分かるとか、真を追求するという事にはそういう精進が為されなきゃならん。
 昨日、それこそ又と言わねばならん程に、もう見事なあれは京都の薬師寺、ね、薬師寺という有名な寺があります。そこの聖観音ですね、有名なお観音様があります。その仏面を頂いた、大きな。もう今まで頂いたので一番見事じゃなかろうかと思う位に素晴らしい仏面。私はほんとにそれをですね、最近とにかく観音様が集まって来なさる。ね、応接間に仏面とお観音様の仏像と二つある。
 私の控えにこの前の慈母観音ですね、備前焼きの見事な観音様を頂いておる。私の居間にも観音様のこれは鋳物ですけれど、これも見事な観音様がある。昨日又仏面を頂いた。もう一部屋に幾つもあれする訳にいけんけんあの、それを置く所がない。炬燵の間に掛けてみたけれどもどうもいかんから、まあ今テレビ室に掛けらせて頂いておるんですけれども、もうどの部屋に行ってもどの部屋に行っても観音様がござるという感じ。
 まあ私がいくら好きだからというてとても自分で買い求めるならそんなに観音様だけ買い集める事は出来ぬ。神様が集めて下さる。云うならば私の周囲に観音様ばかりががその段々多くなって来ておるということ。ね、だから実をいうならば、こうあらなければならない、自分の心が観音様であり、自分の心が菩薩である。なら自分の周囲が観音様であり、菩薩に見えてこなければならないということである。
 のに自分の心自分の周囲にどういう人があるかというと、まあなんちゅう汚か人じゃかねというものがあるのです。ね、先日からの御理解の中にも、太地大師の観音様のというかね、太地大師ということについて御理解を頂きましたでしょう。ね、いわゆる観音様というのは、天地の親神様の中の一面である。それはもうとにかくどういう罪業の深い者でもです、ね、救いを求めて来るならばそれを助けなければおかんという働きを観音様というのだという風に私は頂いております。ね、
 中にはね罰を与える神様も仏様もござるのですけれども、観音様だけはもう助ける事だけ、所謂太地大師である。それが所謂天地の親神様の悲しいまでの願いである。今合楽がね、本当にその太地大師の手に縋って、助けて貰わなければならない事が幾つもある。取り分けならま私共の幹三郎の健康の事なんかはそれである。その太地大師に縋らなければおられない時であり、又縋って助けて頂かなければならない時である。
 その縋る心の中にです、ね、今も申します様にほんとに来ただけちゃああるねといった様な心があったんではでっす、ね、助かりにくいと私は思う。神様はもうね、どうかならしていよいよ真実の行き方を教えて下さろうとし、真実の助かりを受けてくれよという願いをです、その様な観音様が沢山集まってきなさるといった様なことの中からでも、感じ取ってくれよという願いを聞くような思いが致します。
 私が今日申しました、真実とはもう言葉には出せないもの、出せない程しのもの、真実の喜びというものは、ね。ですからそれを自分の心の中で有難いなと温めておくもの。それは本当なものであるなら絶対そこに形になって現れて来るもの。だから尚有難くなって来るもの、これが真実の追求だと。ね、そこに自他共に助かって行く道があるということ。そこのところを今日私は強調した積もりです。ね。
 ですから限りなく厳密に自分の周辺からです、それをやはり感じさせて頂くという、ね、そこに焦点を置いて自分を改めて行くということ。為には先ず成程神様とは一分一厘間違いのないお方だなということを分からせて頂く為に、真実の心を神様にこの様にして向ければ神様もこの様にしておかげを下さるんだという事実をです、いわゆる昨日の久保山さんの体験発表の中からですね。
 お話申しましたその中から好きなものでもです、ね、例えば日田の綾部さんがですね、あの程あの沢山の買物をすることが趣味の様にしておられたというその綾部さんが、ね、もうそれこそ自分の身につけるような物はきれ一寸買いませんとぽんと一蹴された。姿勢を変えてしまわれた。そこにです、それが本当なものであればある程、本当なものがそこに現れて来ない筈がない。それは外しにくい事かも知れせ。
 外しにくい、せめてこの位の事と思う事でもです、神様はそれ位の事はやっぱりとまあ神様は仰るかも知れない。けれども氏子がそれをその気になって、より有難い所謂我が心が神に向かう事を楽しみにきちっとスイッチを切って行く様な気持ちになるならばです、それこそ神様が実を云うたらそれを待っておったんだと言うて下さらんばかりに。次の次々と久保山さんをして昨日半日を有難い有難い一日にしておった様にです。
 おかげ頂ける。ね、だから、そういう又意味に於いてはです、厳しいやはり修行も又神様は求めておられるのだと思うです。その向こうに本当の事が分かる。だから本当な事にならなければならない、本当なことが思いが私ならなければならない。そこにはもう本当な事が形の上にまで現れて来るおかげ、それを本当のおかげだというのだという様なことを聞いて頂きましたですね。
   どうぞ。